Interview

「行って​よかった」その​気持ちしか​ありません。

和の​ハーブティーブランド主宰

大内奈穂子さんNaoko Ouchi

スクールインターンで​米国の​子に​日本文化を​伝え、​帰国後は​和の​ハーブティー事業を​起業。

研修国
アメリカ​(バーモント州)
プログラム
スクールインターン
期間
約9ヶ月
大内奈穂子さん
海外で​教え伝えた​経験が、​私を​”自分が​歩みたい​未来”に​出会わせてくれました。
研修の写真

これから​2回に​わたり、​春の​季節に​ふさわしい​素敵な​姉妹を​ご紹介します。​都内に​ある​国際研修団体”インターナショナル・インターンシップ・​プログラムス”​(以下​IIP)を​通じて​海外の​子ども​たちに​日本文化を​伝えられた​お2人です。​妹さんは​その​知見を​日本で​活かし、​お姉さんは​日本人の​特性を​海外で​活かしてきました。​その​2人が​今、​海を​越え手を​取り合い、​国産ハーブティーの​普及に​取り組んでいます。​まずは​その​事業の​最前線に​立つ妹さん、​大内奈穂子さんの​エピソードです。

大内さんは​学生時代から​英語熱が​高く、​海外にも​ご興味を​お持ちでした。​そんな​大内さんは、​留学や​海外就職ではなく”インターン”と​”日本への​帰国”を、​ご自身の​確固たる​意志で​選ばれました。

ここで​振り返るのは、​My Eyes Tokyo​(以下​MET)​編集長である​徳橋の​足跡。​彼も​留学ではなく​インターンを​選び、​その後は​アメリカで​就職。​やがて​「どこに​いるかより、​何を​するかが​大事なのだ」と​悟り、​日本に​帰国しMETを​立ち上げました。

きっと​ご本人に​とっては​大迷惑かもしれませんが​(汗)​大内さんと​徳橋の​姿が​重なったように​思えました。​METの​メッセージは​「自分が​自分らしく​いられる​場所に​行けばいい」。​大内さんの​ストーリーを、​真の​自分らしさや、​本当に​心地良く​いられる​場所を​求めている​方々に​贈ります。

Made in Japanの​薬草茶

現在、​私は​姉と​一緒に​”hidamari tea TOKYO”と​いう​ブランドで、​国産素材のみを​使った​和の​ブレンドハーブティーを​販売しています。​国内外の​方に​日本の​薬草茶の​魅力を​伝える​ことを​目指し、​今は​オンラインや、​マルシェなどでの​対面販売、​他にも​飲食店などへの​卸を​しています。

JR立川駅そばで​毎週火曜日に​開かれる​マルシェでの​販売。​偶然​立ち寄った​訪日観光客の​方が​購入した​ことも。​主に​宮崎県や​和歌山県の​農家さんから​茶葉を​取り寄せる​一方、​地元・立川産の​ウコンや​ジンジャーを​ブレンドした​ティーも​紹介している。

ハーブティーに​ついて​学んでいた​私と、​ネイリストの​経験が​あり、​アロマや​マッサージなど​美容を​学んでいた姉の​趣向、​さらに​私たち2人が​持つ​長年の​飲食店での​経験が​重なり、​自分たちが​日本人である​ことを​生かして​”日本の​ハーブティー”を​紹介する​事業を​共に​立ち上げました。​和を​伝える​言葉を​いく​つか​考え、​海外にも​届くように​アルファベット表記に​して​並べた​中で​”hidamari​(陽だまり)”を​選び、​私たちの​ブランド名に​入れました。

姉と​「いつか​一緒に​何かしたいね」と​話し合っていた​ことが​形に​なり、​それぞれの​得意分野を​活かして​自然と​役割分担が​できました。​また​茶葉が​扱いやすく​保存も​利く​ことも、​私たちに​とって​魅力でした。

私は​これまで、​主に​食の​分野で​活動を​続け、​日本食や、​日本の​ハーブティーを​紹介する​事業を​立ち上げてきました。​これらの​きっかけと​なったのが、​インターンでの​渡米でした。

「海外なんて​二度と​行かない!」

私は​2004年10月から​2005年6月までの​約9ヶ月間、​IIPさんが​提供する​”スクールインターン​プログラム”に​参加。​アメリカ東部バーモント州に​ある​学校で​日本文化を​伝えました。​当時は​日本の​大学の​3年生で、​英語や​英文学を​学んでいました。​3年の​前期を​終えた​あとに​1年間休学し、​その間に​インターンと​して​渡米。​帰国後に​3年の​後期から​復学しました。

英語に​興味を​持ったのは、​中学で​その​授業が​始まってから。​何でも​器用に​ソツなく​こな​す​私の​3つ上の​姉さえも、​英語と​格闘する​姿を​見て​「私に​できるはずが​無い」と​思い込んでいました。​しかし​教科書に​載っていた​簡単な​英文を​辞書を​使って​理解する​過程が、​暗号を​解くみたいで、​その​楽しさに​一気に​ハマったのです。​また​中学2年生の​頃に​家族で​ハワイに​旅行した​時、​部活で​参加できなかった​姉の​代わりに、​大学で​英語を​学んでいた​従姉が​加わり、​現地で​ネイティブと​堂々と​会話している​彼女を​羨望の​眼差しで​見つめていました。

憧れを​現実に​する​ために、​私は​英語教育に​力を​入れている​高校に​進学。​1年生の​ときに​アメリカで​約40日間の​ホームステイに​参加しました。​本場の​英語に​触れる​ことができる​チャンスに​心躍るも、​到着後に​大変な​ホームシックに​なってしまったのです。​帰国後は​「もう​二度と​海外には​行かない!」と​誓った​くらい​(笑)

でも​英語は​変わらず​好きでした。​だから​アメリカで​挫折を​味わったまま​終わる​ことに、​悔しさを​覚えるようになったのです。​このままでは​負けて​終わってしまう。​もう​一度​海外に​行って​「良い​経験が​できた!」​「楽しかった!」と​言えるようになりたい​ – 私は​交換留学制度の​ある​大学を​選び、​国内外で​英語を​しっかり​学ぼうと​考えました。

入学後に​行われた、​交換留学の​説明会。​留学中に​取得した​単位が​そのまま​私の​大学の​単位と​して​認定されるので、​同級生と​卒業時期が​ずれる​ことが​無い​ – 他の​人たちと​歩調を​合わせる​ことに​心地良さを​感じていた​当時の​私に​とって、​それが​魅力でした。​しかし、​その​道を​選ぶことは​ありませんでした。

女子高生が​気づかせてくれた

アメリカの​大学に​行ける​制度。​しかし”専攻”が、​私に​とって​壁と​なったのです。

経済や​政治、​文学など、​専攻には​様々な​選択肢が​あります。​しかし​当時の​私に​とっては​”学びたい​こと​=英語”。​考えた末、​日本に​いながら​英語を​学ぶ環境の​ほうが​自分に​合っているように​感じ、​大学留学を​見送りました。​また​語学留学も​”日本で​できる​ことを​わざわざ海外で​行う”ものだと​思い、​選びませんでした。

進路を​切り​替えた​瞬間、​それまで​自分の​中に​持ちえなかった​考えが​生まれました。​「日本語や​日本文化を​学びたい​人たちを​サポートしたい」 – 高校時代、​野球部の​マネージャーと​して、​頑張る​選手たちを​支えていた​経験が、​そう​思わせたのかもしれません。

そこで​私は、​海外から​日本に​勉強に​来る​人たちの​受け入れを​両親に​提案。​つまり​ホームステイです。​それが​許され、​私が​大学1年の​頃、​アメリカから​来た​女子高生を​我が​家に​迎えました。​合計9ヶ月間生活を​共に​する間、​私は​彼女と​基本的に​日本語で​話し、​彼女が​困った​時だけ英語に​切り替えて​会話を​しました。

それらを​経て​「私は​誰かの​サポートを​する​ことが​好きなのだ」と​悟りました。​同時に​アメリカ人の​女子高生との​会話を​通じて​「もっと​自然で、​現地の​生活に​密着した​英語を​話せるようになりたい」と・・・

すべては​日本文化を​伝える​ために

その​時、​思い出したのです。​大学入学前に​通っていた​予備校の​英語講師が、​私に​ある​ものを​教えてくれた​ことを​ – それが​IIPさんに​よる​スクールインターン​プログラムでした。

”​日本文化を​紹介する​”と​いう​目的が​きちんと​あり、​一人の​学生に​過ぎない​私でも​”日本人”と​して​海外の​人たちに​貢献できる。​海外で​生活が​でき、​しかも​周りに​日本人が​いない​環境に​派遣される​ – ​そんな​プログラムに​魅力を​感じ、​大学2年生の​時に​派遣元である​IIPさんに​登録しました。​希望の​渡航先は、​もちろんアメリカです。

出発まで​約1年。​私は​特に​英語を​勉強する​ことはしませんでした。​英語は​現地で​自然に​身に​つくと​考えていたからです。​それよりも​「日本文化を​しっかり​伝えたい」と​いう​思いの​方が​強く、​その​準備に​力を​入れていました。​私が​通っていた​小学校の​授業を​見学させていただいたり、​スクールインターン向けの​日本文化および​その​指導方法を​学ぶセミナーに​参加したりしながら、​日本の​教育や​文化などに​ついて​紹介できるよう​備えました。

知らない​ものは​知らない​ できない​ものは​できない

私が​赴いた​米バーモント州は、​とてもの​どかな​田舎。​自然豊かで、​日本では​見られない​壮大な​景観に​圧倒されました。​お世話に​なった​ホストファミリーは​とても​良い​人たちで、​しかも​家族構成が​私の​実家と​全く​同じ​3人姉妹の​5人家族+犬1匹。​しかもホストファザーと​ホストマザーが​いずれも​学校の​先生で、​私が​派遣された​学校で​働いていたのです。​さらに​子ども​たちは​そこの​生徒。​これらが​9ヶ月間滞在する​上で、​とても​大きな​安心材料と​なりました。

私の​研修先の​学校は、​幼稚園から​高校までの​一貫校。​毎朝、​家族全員で​学校に​通いました。​ホストマザーが​3年生の​担任で、​その​クラスに​私の​席も​用意していただきました。​私の​受け入れの​窓口と​なったのは​別の​先生でしたが、​その​人も​日本文化に​興味を​持ち、​私の​活動にも​大変​協力的だった​ため、​とても​動きやすかったですね。​学校側の​リクエストに​応じて、​日本文化紹介の​道具一式を​抱えて​幼稚園から​高校まで​いろんな​クラスに​行きました。

ただ、​それだけでは​時間を​持て​余してしまいます。​だから​私は​他の​先生たちにも​「何かできる​ことが​あれば​教えてください」と​声を​かけ、​活動の​場を​広げていきました。​例えば​小さい​子たちには​日本語の​絵本を​読み聞かせしたり、​高校生には​日本と​いう​国に​ついて​教えたり。​学年に​合わせて​内容を​変えていました。

それまで​教える​経験は​なかった​ものの、​ある​程度​心得が​あった​書道に​ついては、​実技も​含めて​指導できると​思っていました。​一方で、​茶道や​着物の​着付けなど​知識が​乏しい​分野は​無理に​教えず​「ここまでは​説明できる」と​伝えたうえで、​必要に​応じて​資料を​用意し対応しました。​知識の​ない​ことを​適当に​話すのは、​それらに​真剣に​取り組んでいる​方々に​対して​失礼な​こと。​その​ため私は​”自分に​できる​範囲で​丁寧に​伝える​こと”を​大切に​していました。

神社・お寺・クリスマス – アメリカ人の​反応は?

学校では、​生徒たちの​誤解に​驚くことが​よく​ありました。​私が​「日本から​来ました」と​言うと​「昨日チャイニーズレストランに​行ったよ」と​言われたり・・・​彼らが​中国・韓国・​日本を​同じ国であるかのように​見ている​ことを​感じました。

ただ​一方、​”大晦日に​お寺に​行き、​お正月に​神社に​行く​一方で、​クリスマスも​祝う”と​いった​私たちの​習慣を​彼らに​伝えた​とき、​日本人が​宗教心に​欠けているように​思われるのではないかと​ハラハラしました。​しかし​子ども​たちが​「それって​コンビネーションだね!」と​ポジティブに​受け止めてくれた​ことが​印象に​残っています。

それまで​日本や​日本人に​接する​ことがほとんど​無かった​彼らが、​少しでも​「日本って​面白そう」​「行ってみたい」と​興味を​持ってくれたら​嬉しい​ – ​そのような​思いで​インターンに​取り組んでいました。​だからこそ、​もし​私が​変な​ことを​すれば​「日本​人って​変わっているね」と​思われてしまう。​その​ため自分の​行動に​すごく​責任を​感じていました。

一方、​高校時代の​アメリカでの​ホームステイで​トラウマに​なっていた​ホームシックなど、​想像していた​不安な​ことは​一つも​起きませんでした。​日本人が​周りに​いない​環境だったので、​語学も​自然と​上達。​インターン修了後に​振り​返っても​「行って​よかった」と​いう​気持ちしか​ありません。​ただも​しかしたら、​高校時代に​40日間の​短期滞在を​経験していたからこそ、​だったのかもしれませんね。

白玉団子と​チキンライス

日本文化の​中でも​”食”は、​私に​とって​現地の​人たちに​伝えたい、​とっても​大事な​こと。​学校では​日本食を​紹介する​機会も​いただき、​巻き寿司を​作って​提供しました。​また​四角い​卵焼き用の​フライパンを​持って行って​実際に​卵焼きを​作ったり、​料理好きの​先生に​プレゼントしたりしました。

ただ​白玉団子を​作った​時は、​子ども​たちから​苦手そうな​顔を​されましたね。​”甘い​豆”である​あんこにも​抵抗を​示されました​(笑)

ホームステイ先でも​週に​1回、​私が​夕食を​作る​機会を​いただきました。​その​時は​腕に​よりを​かけて​和食を​作り、​それを​ご家族に​振舞いました。​実は​ホストマザーが​日米の​ハーフ。​彼女は​アメリカで​生まれ、​ご家庭内で​日本語を​使って​こなかった​ために​話せは​しなかった​ものの、​おば​あさまが​沖縄から​アメリカに​移住してきた​背景から、​ご家族は​もともと​日本文化に​ご興味を​持っていました。

その​ため私の​活動には​大変協力的でしたし、​彼らからも​「今度クリスマスクッキーを​一緒に​作らない?」と​声を​かけていただいたり、​ターキーの​調理を​間近で​見せて​もらったり。​私が​日本食を​紹介するだけでなく、​私自身も​いろんな​ことを​教えて​もらいました。

興味深かったのは、​日米共通に​ある​調味料。​例えば​ケチャップは、​アメリカでは​フライドポテトを​軽く​ディップする​程度に​使う​一方、​日本では​チキンライスや​ナポリタンの​ソースと​して​使いますよね。​ホームステイ先で​ケチャップを​使って​それらの​料理を​作ったら、​ご家族から​驚かれました。​あらためて​日本食の​面白さを​感じましたね。

食の​道を​突き進む

インターンを​経験した​ことで、​将来の​キャリア観が​”英語+少しだけ​食”から​”​日本の​食文化紹介+少しだけ英語”へと​大きく​変化しました。​英語を​メインに​するより、​それを​趣味と​して​楽しみつつ、​食の​分野で​キャリアを​築く​方が​自分に​合っていると​考えるようになったのです。

帰国後は​チェーンの​カフェで​アルバイトを​開始。​外国人も​時々​来店する​ことから、​現場経験を​積みながら​英語も​使える​環境に​満足していました。

そんな​中、​常連客だった​ニュージーランド人が​経営する​サンドイッチ専門店を​訪れる​機会が​ありました。​お料理の​クオリティが​高く、​スタッフ間の​会話も​主に​英語で、​外国人や、​外資系企業に​勤める​日本人の​来店客が​中心 – 私に​とって​理想的な​環境だと​思い​「ぜひここで​働きたい」と​申し出て、​採用されました。

お店で​唯一の​日本人スタッフと​して​5年間勤務し、​英語力が​さらに​伸びただけでなく、​調理師免許取得への​意欲も​生まれました。​業務も​調理以外に、​業者さんとの​交渉時の​通訳や、​行政関連​書類の​作成も​担いました。

その後、​年齢を​重ねても​続けられる​仕事を​模索し、​フードコーディネーターの​資格取得や​料理教室の​アシスタント経験を​通じて、​人が​美味しく​食べる​ための​食事を​作る​ことや、​作り方を​教える​ことに​やりが​いを​感じるようになりました。

波に​流され た​どり着いた​場所

結婚を​機に​ニュージーランド人経営の​お店を​退職後、​2016年秋頃に​料理教室”Yorokobi Kitchen”を​立ち上げました。​コンセプトは​”外国人観光客への​日本の​食文化の​紹介”。​ちょうど​当時、​東京オリンピックに​向けて​インバウンド需要が​高まっており、​友人の​紹介で​つながった​旅行代理店などを​通じて​訪日観光客が​教室に​参加してくれました。

しかし​コロナの​影響で​予約が​全て​キャンセルに。​その​後も​続ける​道を​探して​試行錯誤するも、​2人目の​子ど​もの​出産を​機に​休業を​決意。​あくまで​教室は​終了ではなく​“お休み”とし、​タイミングが​来たら​再開すると​いう​柔軟な​スタンスに​切り​替えました。

そして​2022年10月、​国産ハーブティーブランド”hidamari tea TOKYO”を​立ち上げ。​もともとお茶は​好きでしたが、​緑茶など​競争の​激しい​定番商品ではない、まだ​知られていない​日本の​物品の​中から、​扱いやすさや​続けやすさを​重視して、​薬草茶に​たどり​着きました。

研修の写真

私たちは、​健康志向を​強く​押し出す​ことはしません。​「日々の​食生活に、​ちょっと​健康的な​ものを​取り入れる」​- ​これが​私たちの​メッセージであり、​同じような​価値観を​持つ​人たちに​届く​ことを​目指しています。

現在は​越境ECでの​販売もさせていただいていますが、​海外からの​購入実績は​まだ​少ないのが​現状。​まずは​日本に​住む外国人や​訪日客に​味を​知って​もらう​ことを​優先し、​国内での​実績を​積み重ねたうえで、​徐々に​海外展開を​目指していこうと​思っています。

芽生えた​母国への​誇り

これまでの​私の​活動の​軸は​”食””英語””国際交流”。​それらを​形作る​ことが​できたのは、​間違いなく​私の​アメリカでの​インターン経験の​おかげです。​起業して​始めた​料理教室や​ハーブティー販売も、​その​軸に​貫かれています。

アメリカでは、​失敗した​ことが​批判されるよりも、​チャレンジした​ことが​評価されます。​そのような​環境に​身を​置く​ことで​挑戦する​ことへの​心理的ハードルが​下がったり、​日本だけの​価値観に​縛られずに​広い​視野で​物事を​見られるようになったり・・・​今の​活動は、​それらの​経験の​上に​成り​立っていると​感じます。

一方、​日本に​対する​誇りも​生まれてきました。​インターンに​行くまでの​私は、​どちらかと​いうと”海外に​憧れる​人”。​でも​実際に​外へ​出る​ことで、​あらためて​日本の​素晴らしさに​気づいたのです。

ただし国際交流の​場では、​相手の​文化を​きちんと​リスペクトする​ことが​大前提。​自分の​文化を​押し付けるのではなく”相手に​知っていただく”と​いう​思いです。​それも、​今の​私を​貫く​軸に​なっています。

小さくても​いい 最初の​一歩は​大きな​ステップ

私は​英語が​好きでしたが、​それでも​海外に​行くことに​対して​すごく​勇気を​必要と​しました。​決して”英語が​好きだから​簡単に​行けた”と​いう​タイプではありません。​”英語が​好き”と​”海外に​行く”は、​全く​別の​次元の​話です。

海外に​行くのは、​本当に​勇気が​いる​ことだと​思います。​私自身も​すごく​悩みました。

でも​勇気を​出したり​行動したりする​ことは、​持って​生まれた​才能や​実力とは​関係なく、​子ども​でも​大人でも​誰に​でも​平等に​与えられた​”力”です。​少しでも​興味を​持ったら、​勇気を​出して、​小さくても​良いので​一歩踏み出していただけたらと​思います。

最初の​一歩は、​すごく​大きく​感じるかもしれません。​でも​自転車と​同じで、​乗る​前は​倒れる​ことを​想像して​怖くなる​一方、​いざ漕ぎ出したら​自然と​スピードに​乗っていける​もの。​海外生活にも​同じことが​言えると​思います。

少し​勇気を​出して、​行動してみる。​それを​積み重ねていく​ことで、​振り​返った​ときに​「ここまで​来たんだ」と​思えるようになる。​そのような​経験が、​皆さんを​成長に​導く​ものと​信じています。

お姉さんの豊泉恵理子さん(右)と。現在はカナダでhidamari tea TOKYOのバックオフィス部門を担う豊泉さんも海外インターンを経験され、しかもそのエピソードは驚きの連続!皆さんを想定外の世界に誘うストーリーはこちらから!
写真提供:大内奈穂子さん
お姉さんの​豊泉恵理子さん​(右)と。​現在は​カナダで​hidamari tea TOKYOの​バックオフィス部門を​担う​豊泉さんも​海外インターンを​経験され、​しかも​その​エピソードは​驚きの​連続!​皆さんを​想定外の​世界に​誘うストーリーは​こちらから!
写真提供:大内奈穂子さん
「海外に​行きたい!」と​願う​人なら、​きっと​最初の​一歩を​踏み出せる。​いろんな​人に​触れながら、​ご自身に​起きる​変化を​ぜひ楽しんでください!

出典:My Eyes Tokyo​(インタビュー&構成:徳橋功)

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