米テレビ局で番組制作に携わる
徳橋功さん
アメリカ
2001年2月24日。ロサンゼルス初の乗客わずか6人のプロペラ機の窓から、私はフレスノの街を見下ろしました。人口40万人とは聞いていましたが、「高い建物がひとつもないじゃん!」。その日は曇天ということも手伝ってか、フレスノは私にとってひどく退屈な街に思えました。そして、私の脳裏をかすめた不安。「1年間も、この街でやって行けるのだろうか・・・」。

そして、その不安は私の記念すべきフレスノ上陸の瞬間に、さらに強くなったのです。
空港には研修先のテレビ局の報道部長が迎えに来てくれていたのですが、私が何か喋るたびに、顔をゆがめて“What?”を連発。挙句の果てに、道中の車内で彼が「こっちを向いてしゃべってくれ。そうすれば口の動きで、君が何を話しているのか推測できる」と言う始末。‘TOEIC730点’(当時)という、日本人にとっての華麗なる勲章は、ここアメリカでは全くの無力、紙クズ同然なんだと、アメリカ大陸上陸後わずか30分で悟ってしまったのです。

そしていよいよ研修に突入するわけですが、忘れもしない研修初日。局のニューズルームで一人ポツンと座っていた私は、報道部長に何をすればいいか聞きました。彼は言いました。「そうだな、テレビでも見ていてくれ。英語力も上がるしな」。オイオイそれって仕事か?もしかしたら自分は、ずっとここでテレビを見て1年間過ごすことになるのか?不安は倍々に増幅していきました。

私は、不安を払拭するための行動にでました。「とにかく今の自分に出来ることをするしかない」と、取材に同行したり、記者自らが行なう編集作業をみたり、捨ててあるニュース原稿を拾っては、パソコンでそれらを打ち直してタイピングの練習をしてみたり・・・。そうやって少しでも前に進んで、不安を和らげようとしました。

それと並行して、“ネタ探し”も始めました。ニュースで放送されるような情報を独自に探して行くわけですが、その時私は考えました。「アメリカ人と同じ土俵には立てない。ならば、日本人だからこそ取り上げることのできるネタを探そう」。

私は、仏教別寺院を中心とする地元日系アメリカ人コミュニティーの人たちに連絡をとり、情報を提供していただきました。そんな中で、親鸞の生誕を祝う「花祭り」の式典や、米軍日系人部隊の栄誉を称えるメモリアルデーイベント、日系人の子供たちに日本文化を教える“つばめの学校”などをニュース番組で放送しました。日本文化のアメリカへの発信をささやかながらも試みたつもりです。

さあ、これで誰かが自分に仕事を頼んでくれるだろう、と思いきや、事態は変わらず。
自分が動かなければ、周りは動いてくれない。それがアメリカです。が、ひるんでもいられない。ディレクターに、「自分も編集したいんだけど・・・」とか「スタジオカメラに挑戦したいんだけど・・・」と恐る恐る尋ね、OKの返事をもらっては1つ1つ仕事を“獲得して”いくしかありませんでした。その結果、1インターンとしてではなく、TV局のクルーメンバーとして、FOXやCNNから届く映像チェックや編集、高度なリスニング力が問われるスタジオカメラの操作、テープローディングなどの仕事を正式に携わる事になりました。スタッフ全員が私の担当する仕事を把握することになる為、責任は重くなりましたが、とてもやり甲斐がありました。ついに、ここまで来たぞ!という気持ちでうれしかったです。

こうして1年が過ぎて行ったわけですが、不思議と「楽しかった!」という思い出しかありません。背の低い、英語もロクに話せない、遠い異国の地から来た東洋人の男を迎え入れてくれた。それはもう、いくら感謝しても足りないぐらいです。人の優しさであふれる街フレスノ。少しだけ退屈かもしれないけど、今では私のアメリカでの“故郷”です。