米国で経験できた医療の現場
小平美香さん
アメリカ
1999年、友人に誘われ初めて海外旅行をした際、海外で暮らす人たちとの交流を機に私はそれまでの自分の人生を振り返り、このままでいいのだろうかと思うようになっていた。私は当時10年以上助産師・看護師として都内の総合病院で働き、管理職になり、院内のいろいろなプロジェクトに携わり、忙しくもそれなりにやりがいを感じていた。しかし、この先のことを考えるとその生活がつまらなく思えてきた。そもそも私が助産師の免許を取得した理由は、発展途上国などで医療活動をしたいという思いがあったからだった。それが様々な理由から日本を出ることなく病院で働き続けていた。もう一度その夢に向かってみよう。思い立ったら即実行の私は、医療職の海外派遣に携わる組織に当たってみたが、どこでも英語力が不可欠で受け入れてもらえなかった。IIPの新聞広告を目にしたのはその頃であった。語学力の向上と海外の病院での活動の両方が同時にできる。私にとっては絶好の留学制度であると感じた。試験に合格し、年度末まで時期を待ち、病院はきっぱりと退職した。留学までは独学中心にCDで英語を聞きながら、自分でも声にだしてみるという形で勉強を続けた。高校卒業から15年以上も英語に触れる機会がなかったため、英語を思い出すまでは大変であったが、もうやるしかないという思いで日常生活のちょっとした時間を利用して英語漬けの環境を自分で作っていった。私が12ヶ月のビジネスインターン生活を送ったのは、アメリカはネブラスカ州リンカーンのあるリハビリテーション専門病院だった。車がないと生活できない土地だったが、ペーパードライバーの私のために徒歩圏内のホストファミリーを見つけてもらった。活動を始めて感じたのは、何をするのも自由ということだった。それは裏を返せば自分に目的がなければ何もないということでもあった。日本人は全くいない中で、地元の人たちは早口な英語で、私の悪い発音はなかなか理解してもらえず、しかも私が何者なのか病棟で働く医療スタッフにもなかなかわかってもらえず、活動開始当初は本当に路頭に迷っていた。しかし運の良いことに、間もなく院内の無料看護助手養成5週間コースがあることを知った。看護助手が医療界に足を踏み入れる第一歩のような資格であった。授業は予習が前提となりものすごいスピードで進み、毎日テストがあり、それで7割以上正解できなければ即退学であった。厳しかったがそのコースを終えるころには友人もでき、また語学力も向