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2014年11月01日・Yuta Abe・ 20代 , フィンランド , 海外教育交換プログラム
 昨日道場の子供たちを森に連れて行く時に、ヤルノとフィンランド剣道の稽古について話していたら少年のひとりが「ヤルノはなんで英語を話しているの?」と英語で聞いてきた。その時のヤルノの答えが、なんだか心をすっとさせる、客観的な事実なのだけれど考えさせられる一言だった。

「それはね、私が日本語を話せなくて、Yutaがフィンランド語を話せないからだよ。」

 英語を第二言語として学ぶ国民として、英語は海外人とコミュニケーションをとる手段である。国家予算の大半を社会保障と教育にかけたフィンランドでは、一方で海外の産業的娯楽を取り入れたいという気持ちが本当に強い。日本を例にとっても、学生が漫画を読むという行為は日本の彼等と何も変わらない。一つ決定的に違うのはそれを何語で読むかだ。フィンランド語に翻訳されてなければ英語で読むわけだ。英語でyoutubeのanimeを見るわけだ。彼等にとって英語はいわばマスターキーのようなもので、あれば世界が広がり、あった方が良いと考えている。日本の武道であればなおさら、未知の日本語は英語訳されていれば幾分ハードルは低く、しかし英語からのみ文化として取り入れ、脈々とこの地にkendoを根付かせてきたのである。ヤルノの答えはその意味ではまったくの正論だった。しかしもし、私が日本の教壇に立ち続けていたら、同じ答えを生徒に返すことが出来ただろうか。「なんで英語やんなきゃいけないんですか。」日本の学生が抱くその質問は、字義通りの解釈では納得の行く答えは返せないのだ。すなわち「大学受験で点配分が高い教科だからだよ」とか「将来役に立つからだよ」といった、誰もが知っている自明の再確認や、米国・中国を主軸に潜ませた日本式グローバリズムの抽象化表現は、生徒の求めるところではない。まして英語教師の求めるところでもない。「なぜ英語を教えるのか。」

 日本の学生が聞いてくる「なんで英語やんなきゃいけないんですか。」とは、背景心理を突き詰めれば「なぜ第一言語の日本語は世界共通語じゃないんだろう。なぜ第一言語が英語である人に英語に合わせて会話をしなければならないんだろう、はじめから英語しゃべってたら欧米(先進国)の人との会話が楽で、非英語圏の人に英語を強制出来る優位に立つのに。そして結局、日本の尺度でのそれは点数化することだけなのか、しゃべれないの前提でさっ!」というやり場の無い苛立ちに過ぎない。それを現場の教師が質問の文字通りに捉えて答えたところで不満が増すだけなのだ。日本の地理的環境が欧州・欧米から遠いので、グローバル化と言っても地続きに共感が得られない。そしてアジアにはアジア特有の政治的課題があり「世界と繋がろう」という平和的キャンペーンは、まずは環太平洋圏という地域からの構築を強いられる。先の日本式グローバリズムとはそのことだ。もちろん同様の問題は欧州にも発生していて、一見強い絆で結ばれたように見えるEUという土台はそれ以上肥大化せず勢いを失うことを迫られている。一国家にとって地はあまりにも広いようだ、一地域をまとめていくために近隣諸国との対応で手一杯になってしまう。けれど、一個人の文化の享受は違う。

 EU圏に住み、アジアの島国の伝統武道を愛してくれる。内省的な国民性や互いの言語に類似性を見出し、けれど出来る限り発祥の地の特色を失わないように取り入れたい。そのために英語がどうしても必要なのだ。読めるだけでなく話せることも必要なのだ。お互いが英語以外の第一言語であるから、思うように流暢な表現が出来ないけれども、確かに意志が疎通されていく。グローバル化とはこのことだと思う。自分の国籍に誇りを持つことが前提にあって、その上で他国を尊重する時代のうねりに生じた産物が英語だったから「私が日本語を話せなくて、Yutaがフィンランド語を話せないからだよ。」という大人も子供も納得出来るシンプルで素直な答えが生まれたのだろう。

 少年は「I can speak Finnish and "Englanti" a little.」と言った。私は「Mina puhun vahan suomea.」と答えた。


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