私がイタリアで見つけたもの
都賀 由美子さん
イタリア
◆イタリアに恋して
1998年の10月から1999年の6月、私はイタリアでインターン活動に参加した。50才だった。イタリア語力はラジオ講座を2年間聴いた程度。イタリア人はもちろん日本人ともイタリア語を話した経験はなかった。一度、一週間ほどイタリア旅行をしたことはある。その時確かにイタリア人と接触はした。何語を話したのだろう。多分あいまいな笑いと手振りで切り抜けたのだろう。が、その旅行が私をイタリアのとりこにした。もっと見たいと思った。もっと知りたいと思った。もっと近づきたいと思った。言葉を交わしてみたいと思った。そして、夢はイタリアで暮らすこととなった。
インターン活動に参加することになって、夢は実現することになった。イタリア滞在中、私はずっと夢の中にいた。自分の見ている夢に興奮してもいた。帰ってからも夢から覚めやらない。見て来たもの、聞いて来たもの、感じて来たもの、味わって来たもの全てが混ざり合って形をなさず整理がつかなかった。5年経った今やっと少し落ち着いて振り返ることができそうだ。
城壁、石畳、路地、洗濯物、広場、井戸、教会の大扉、鐘の音、銀細工の店、香水の香り、中部イタリア、アブルツッオ地方ランチャーノの町には、私の求めていたイタリアがあった。私はその町で、イタリアの素顔に出会うことができたと思う。その素顔を見せてくれたのは、そこに暮す人たちであった。
◆生徒たち
この町の中学校でインターン活動を始めた私は300人ほどの生徒たちと出会う。それぞれに美しい名前を持つ生徒たちは容姿も性格も充分個性的であった。が、ひとりひとりの個性と付き合うまでにいたらなかった。集団としてしか書くことできないことを残念に思う。
のんびりしたお国柄と聞いていたが、学校現場は意外にきつい。先生の管理(授業中に限ってだが)は厳しいし、授業時間が長い割には休憩時間が短いし、土曜日はお休みでないし、宿題も多い。日本と大して変わらない。生徒たちは、楽しいこと、心地よいこと、面白いことだけを求めている。これも日本の子どもと変わらない。が、表し方はより率直だ。私は教室に入る度に、拍手と歓声の大歓迎を受けていた。だんだん気が付くことになるのだが、厳しい日課の息抜きの場が私の授業だった。が、授業に飽きられたときは一大事。教室は喧嘩のるつぼだ。おしゃべりなどまだかわいい。喧嘩、お化粧、紙くずの投げ合い、手紙の廻し合い、おやつを食べる、あらゆる形の自分勝手が始まる。遠慮会釈なく堂々と。しかし、神は見放さない。ここに弱い者の見方が現れる。気の毒そうな顔をして私を見つめ、「校長先生をよんだら?」と言ったり、「みんな、静かに。」と怒鳴ったり、挙句の果ては勝手に緊急ベルを押して校長先生を呼び出してしまったりする生徒が必ずいる。私の近くに坐って私の表情が見える生徒なのだ。
自分勝手きわまりないイタリアの生徒たちは同情心もある生徒たちなのだった。
「言い訳をする」というのも生徒たちの特徴だ。黙って叱られてなどいない。うそをついても言い訳はする。言い訳するのは権利なのだ。叱責、言い訳、叱責、言い訳、この繰り返しで授業が終わってしまったこともある。ベテランの男の先生の授業だった。先生も生徒も唾を飛ばし、本気でやりあった。この場合周りの生徒達はどちらにも味方しない。対等な対決には立ち入らない。静かに見守っている。その後、この先生と生徒はお互いに悪感情を抱いているように見えなかった。
扱い難い生徒たちではあるが、時にはとても熱心になる。毛筆の授業は今思い出しても楽しい。彼らは感じに憧れを持っていた。文字が意味を持っているということにも、その文字の形にも美を認めた。そして筆を使って文字を書くことに、絵を描くような楽しさを見つけた。黒い墨も丁寧に扱った。生徒たちは愛という字、希望という字、平和という字を喜んで書いた。安土礼阿(アンドレア)とか陀美出(ダビデ)などと自分の名前を添えながら。
美しい物を認め大切にする生徒たちであった。

◆私がイタリアで見つけたもの
何がこんなに私を惹きつけるのか、それを確かめたくてイタリアに暮らした。帰って来た私は、この9ヶ月でたくさんのものを見、聞き、体験したと満足しながら、一方ではまだ見足りない、聞き足りない、何もかもがまだ足りないとも感じていた。けれど今振り返ってみて、私は出会ったこの国の人たちからとても大きなものを受け取っていたことが分った。今またあの人たちに会いたくてたまらない。今すぐ飛んで行きたい。ありがとうと行って抱きしめたい。
私がイタリアで見つけたもの。それは、愛することを喜びとする人、愛するものを誇りとする人、愛するものはすぐ傍にあることを知っている人、そんな人たちだったのである。この人たちはイタリアを世界の中心とすることを躊躇しない人たちでもあった。