いつでも踊れる場所・イタリア
有吉 トモ子さん
イタリア
Diciamo che siamo in Africa del Nord.って言っていた程、Siciliaの中でもアフリカに一番近い、またチュニジア人街カスバもあったりするMazara del Valloが私が9ヶ月滞在した場所だ。2000〜2001年の滞在から毎年SiciliaをメインにItaliaへは数ヶ月帰り続けている。
小学校での活動に加えて、個人の経験という点においては様々な機会に恵まれた。ステイ先の校長が、同じTrapani県のPantelleria(本当に一番チュニジアに近い周囲40「の島)の校長をその年だけ兼ねていた為、その島にも滞在が叶ったこと。晴れた日には本当にチュニジアが見えるのだ。アルマーニのお城のような夏の別荘があって、夏はヨーロッパ各地からリゾート地として密かに人が集まってくるとても素敵な島だ。家の造りは昔アラブ人がもたらしたdammusoという天井が高く屋根が丸い独特の造りの家であったりする。目に見える風景はとても神秘的で、夏の海は最高に素敵だ。島は小さく4つの小学校のうち3校が全校生徒20人弱の分校だ。全ての学校を回り、子供達とより親密な時を過ごすことができた。
知り合いがあれば何でもできてしまう国イタリアで、学校関係者の知人がパレルモ大学の教授ということで、私は心理学部の公開講座に招かれ学生ゆうに2、300人はいたであろう人前で、30分間さむらいの時代から戦後そして現在における女性の地位の変化についてのスピーチを行った。ものすごい作業とまた成し終えた時の安堵と達成感は今も覚えている。大変貴重な思い出だ。また、パレルモの私立高校での授業や、大学寮での座談会への参加も同僚の先生の出身校であった故成しえた出来事であった。
9ヶ月のSicilia滞在の後、1ヶ月半Firenze大学の夏季イタリア語コース受講。その後、知り合った一家族との夏のSardegnaでの3週間の滞在。キャンプ場でのテント生活や、水や電気のないキャンピングカーでの生活。水を求めて墓地の入り口で寝泊りしたことすらあった。夏の素晴らしい思い出だ。帰国までの1ヶ月、一転北イタリアの旅を続けた。街ごとに違う風景や文化や風土はとても新鮮だった。
現在実家である山口で外国人に日本語を教えるボランティアを行っている。ユ85のイラン革命で情勢的に国に帰りたくても帰れないイラン人の友達。国はいつも戦争だったからと自国を愁うコソボの友達。イタリア人のみならず異国の人と知り合え、またイタリア滞在時たくさんの人に助けられた私は今、自国日本にいる。私の番だと思っている。彼らを助けるといえば語弊があるが、人類みな兄弟。と心から思えるのだ。ホームステイも機会があるたび受け入れた。韓国、中国、インドネシア、ペルー、メキシコ、インドネシア、パプアニューギニア、カナダ、オーストラリア。なぜかイタリアが足りないのだけれど。
もう一つの活動、市の観光ボランティアガイドも今年で3年目になる。イタリアで感じた大きなことの一つに、彼らは実によく自国故郷の歴史を知っているということ。歴史的に長年に渡り異国の支配を受け続けてきた彼らは、何百年前の自分達のルーツを説明できるのだ。彼らに比べてあまりに日本、故郷の歴史に貧弱であった私は、今日本の歴史を紐解いている。外国人に仏教の世界や歴史を山口の歴史を織り交ぜながらガイドに努めている。
学校での活動に加えての付加産物が私にはとても大きかった。1年の異国イタリアでの滞在は、私にとって新しい道を開かせ、これからの全ての始まりだと感じている。イタリア語の習得においては、よりレベルの高いものにすべく努力は続けているつもりだ。イタリアに戻るたびに新たな出会いや発見があり、またいつも帰れる場所があることは、自分はとても幸せなのだといつも実感できる。
リラからユーロ統一により、ユーロ圏内では一番のインフレ率を誇るイタリア。物価高を切々と訴える彼ら。政治の腐敗や、若者の高い失業率、南北の経済格差、移民難民問題、アフリカや周辺諸国からの密航難破船がいつもシチリアの浜辺には朽ちはてたまま打ちあげられている。日本に比べれば無秩序であり続けるイタリアはきっと日本より問題山積?だが、なぜか惹かれるのだ。それは中世の石畳の街並みであったり、イタリア語の響きであったり、温かい本当にたくさんの友達であったり、最高に素敵な夏の海であったり、大好きなイタリア料理だったりする。
きっと一生をかけてItaliaとつきあっていくことになるんだろうと思う。また、Italiaを通して自国日本も含め世界へ目が向いたこと。すばらしい1年であったし、本当に全ての始まりの1年であったと思っている。